我々の生活は便利になっています。親指でスマホをポチポチすれば食べ物も物も運ばれてきます。
しかし、不自由も不自由で楽しめます。
行列のできているラーメン屋があるとします。
昔に比べてまずいラーメンはほとんどありませんよね。
それでも行列の不自由な時間をワクワクしているからそのラーメン屋に並んでまで食べたい物です。
その並んている時間が記憶に残ってワクワクして不自由を楽しんでいるのです。
これは、登山家が険しい山を登るのをやめられないことにとても似ています。
そもそも生まれてきてから全て不自由を楽しむためにあります。
体がある限り、ぶつけたら痛いです。感情は喜怒哀楽があり、不自由しかありません。
不自由の喜怒哀楽を体験したく生きているとも言えます。
妄想屋のいつもの妄想ですが、私たちはあの世で肉体的に不自由を楽しんできます。なので肉体をください。きっと親切に手助けをしますといい人々に親切に役に立つためな体験を積みにきたように思います。
嫌な学校や会社に行っている間は、もっと休日があればいいなとか思いますが、実際毎日休みだと何をしていいか分からずに何となく過ごしてしまった。日常に苦痛を感じてしまうものです。
あれほど欲しかったはずの休日が楽しくとも何ともない日になります。
小学生の頃の三百円までのおやつがとても嬉しかったのです。
三百円とは不自由しかなかったけど、あのワクワク感は大人になっても思い出せます。
いざ自由やお金を与えれた瞬間に空虚感が訪れます。
大の大人がお金のために多少の悪いことをしてもいいんだと阿鼻叫喚していることがありますが、
周りを殺し合っていいエチケットはありません。
真剣にゲームに参加して乗り越えようとするからそのゲームが面白いのです。不自由が楽しく、興じることが大切です。
小学生の時ゲームでプログラミングをして、自分の色違いとレベルを自由に設定できるようにしました。確かに最強なのですが、急にポケモンというゲームがつまらなくなってしまいました。
結局のところ不自由が楽しいのに氣がついた瞬間でもありました。
「不自由がええじゃないか!」と思えてくると自ずと行動をして人の役に立つことを考えだすものです。
その結果が仕事になっていきます。
元から日本はええじゃないかという風潮でした。
時間に厳しくなったのは、明治初期のオランダさんの技術士からなっております。
「明治初期に科学技術を日本に伝えにきたオランダ人技師たちは、時間をまったく守らない日本人の悠長さに呆れ、困り果てていたという。しかも、それは時計がない時代だったからというだけでもない。定時法の導入や時計の普及など、西洋の近代的な時間システムをとり入れたあとも、まだ日本の鉄道では30分ぐらいの遅れはあたりまえだったし、工場では労働者の遅刻が横行。そこで米国生まれの科学管理法を導入したり、大正期には政府が「時の記念日」を制定し、国を挙げて時間規律の浸透に力を入れた。その結果、ようやく鉄道や工場で時間が守られるようになっていったのが昭和初期、わずか80年ほど前のことにすぎないのだ」
遅刻の誕生より
江戸時代まではええじゃないか!ええじゃないか!という不自由を楽しむ文化であったように感じます。
不自由を肯定できると前向きになれるのです。力みを抜いた無意識の状態になるので、最善の道を歩めるようになるのです。
ええじゃないか!と許せるようになると、それもええじゃないか、不自由でも車もあるし、人間もいるじゃんか、笑顔もるくれるし、本もネット環境も全てがありがたく感じるようになってきます。
感謝の磁気を蓄積していくとまたいい人やいいお金の縁に出会すものです。
この先感謝を忘れず生きていく人とそうでない人の差が縮まらないほどに大差になってしまうかもしれません。
誰でもできることですので、「不自由がとてもええじゃないか!」と思って感謝して生きてみてはいかがでしょうか?
生かしていただいて有難う御座います☺︎