今の自分の良心が大切!良心があるのは愛があるから

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良心は、人により差異があるように思います。
小さい頃に何氣なく喜ぶと思い両親に玩具を渡した記憶があります。
しかし、両親は機嫌が悪く受け取ってくれませんでした。
その際に、よかれと思いやったことが迷惑になってしまうことで傷つく記憶があるとします。
自信がなくなり本当にいいことなのか分からなくなるものです。
・・・良心の基準に迷いようになる人が多いです。

はたして、良心とはこれはいいこと、これは悪いことと言ったように割り切れる物なのでしょうか?答えはNOでしょう。
大切なのはいつも、そこに「他人への思いやり」や「他人への愛情」が在ることです。
あの人に何かしてあげたい」「他の人も幸せになってくれたな」と思う気持ちは、交換条件の無い、他への思いやりです。
人間の心も成長していきます。本当に小さい頃は、生まれてきてくれて有り難う、玩具を渡してくれる可愛い有り難うと両親は笑顔になっていた。そのうちは絵を描いて喜ばせたり、花をあげて喜ばせたり、成長した自分も見せてあげて喜ばせたりと、その時々、様々な方法で心は日々成長します。
実際は、心は小さい時から「成長し切った存在」なのです。
しかし、その方法はその時の環境、時代によって変わっていきます。
そして、忘れてしまうことも多々あり利己的になってしまうこともあります。
それに氣がつき・目覚める「過程」を成長と呼びます。

今の」自分が心から「他のため」に思える愛情が良心なのです。
後でそれが「いまいちだった」と、世間が評価をしても関係ありません。その時の自分の真剣な心からの発露が「尊い」のです。
この「他の人への良心」は、幾つになっても発露させることが大切です。
他人や物や生物の全てのものに対して、同じことが言えます。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と同じく、地獄にいた主人公が蜘蛛を助けたから主人公も蜘蛛に助けられようとしていたけど、またこの他の人への思いやりがなく、地獄に落ちるのです。
自分の生きたすべてが、自分に反転・反射・振り子の原理のように還ってきます。完全なる公平なことです。だから、悩み・不幸・不公平・不満という煩悩に囚われる本来は必要はないのです。虎視眈眈と良心に沿った生き方をすれば、次なるステップをしていくものです。次々と楽しい旅をして行きます。

私は、すべてが神の子であり、誰でも神になるプロセスを踏んでいると思っております。
すべての人類の意識の根底・心に在ると感じます。これがなければ、この世への誕生は受納ができません。
肉体も、「預かり物」です。あるときを迎えて有限の期限がこれば、必ずお返しするものなのです。
心と肉体が合体している「過程」であり、未熟なのものです。
問題は、現在の物質的社会にいると心を蔑ろにすることです。肉体はわかりやすく生と死を持って有限なのがわかりますが、心は生まれた最初から完全ではありません。そして、心の段階が人によって違うのです。

心は、1〜10の段階に分かれていると感じます。
中国の古典(扶桑十牛訓)でも10段階に分かれています。
1〜8段階で発露して9・10の段階で無の世界に入って行きます。
どの段階にいても「他への愛情」が在るか無いかが大切だと思います。
だから良心の内容で心配は必要ありません。差はないのです。

他への思いやりの気持ちが自分の良心を発露させてくれるものです。
「今の」自分が、他人のためにいいなと思うことは素直にこの世に発露をさせていき、その都度の改良をしていき、各々の綺麗な花が咲けばいいのです。

生かして頂いて 有り難う御座います

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