出会いとは、不思議である。
自分にあった人たちとの出会い。人に誘われたり誘ったりすることへの出会い本当に数多くの出会いがある。こんな出会いがあるだけで、また生きていこうと思える。今までは自分もいっぱい間違いした。そしてこれからもまた間違いはするであろう。それを一つずつ今目の前の出会いを大切にしていくとまた大切な出会いにつながる。この出会いが本当に大切で出会いがなければ正直毎日一緒の思考回路に行き着く。出会いが自分を作り出してるのではないか?今までの出会いと自分の問題がループをしている時がある。その時は出会いに甘んじていると一瞬でその問題が困難として現れる。
年齢も性別も関係なく皆が心の奥底にある霊魂が燃えていることを意識して生きる。いろいろな形がある。その形が面白い人たちが見えだすとその人たちと懸命に話してみたりすると、その因果がまた話される。
ここで話は変わるのだが、あなたも私も何かお大きな固定観念を持って生きてしまっている。それは日々の情報の中から固定観念みたいな情報を得ている一体何を言っているのかわからないだろう。固定観念が自分を作り出しているかもしれない。ひたすら考えて生きていくと自分の脳がいかに間違っているのか、またいかに体だけ間違って行動しているのか何かしらの理由があって私たちは今の目の前の状態があるのだ。この状態で居続けることがいかに愚かで怠惰であったのか後になって引き起こされていることにより人間は後悔という形で現れる。そういう時は必ず自分の何かが間違っているのである。
因果応報ということが言いたいのである。そして、それをあらかじめ感じて先に対処しておけばその因果応報もそんなに怖いものでもなくなる。その問題からあらかじめ正当なる努力と意図的苦労の元から目を話すと大きな歪みとして自分の目の前に困難として現れるようになる。
それはそれで順調なのだが他人様までにその因果をぶつけだす。そこはまさに地獄絵図のごとく戦さの場である。あの人がいけないのよこの人がいけないのよ。全てがいけないようなそんなイメージを持ってします。
現れた時の本当の心の底にある物を素直に真摯に受け入れるだけで良いのにそのことを忘れ無我夢中で前進していく人間の末路はお互いに大きな傷という困難を与えて現れる。それはどこの歴史を見ても毎度同じ形で現れている。戦争であったり企業で潰しあったりとし出しお互いに大きなダメージを受けて誰も徳をせずに崩壊へ向かっていく。
では反対に、本当に晴れやかな気持ちで居られることはできるのかできないのかそれは多少の波があるがその波を常に上に持っている状態でいればそのまま突き抜けて物事がすんなり進んでいく。そんなこと言っても何をすれがいいのかわから似というがそれはありがとうや心の底にある愛といったもの本当に温かい言葉に目を向けているこのあったまる感覚に身を任せていればいいのだ。そうするとこいつは勝手に働いてこのような文章にしてくれるのである。
そうすると、企業同士で協力したりお互いに寄り添って生きていくことができる。
一体なぜこの苦しみをや困難といったものを人間に与えるのか?この苦しみというものを作ってこの世に必要なものなのか?苦しい身を自分の中で選択しに生きているのである。自分の苦しみを受け容れた時大きな愛に包まれるであろう。苦しみを受け入れるのは自分の一番嫌な部分を真正面から受け入れる必要がある。そのことを考えているうちに気がつくと相手の苦しみが何かまた相手の起きそうな苦しみもわかるようになってくるその人がどのようなタイプでどのようなことに執着をしているのかわかってくる。その人にはその人の段階があり一つずつつ向き合っていく必要があるよく自分と比較しろというのは本来はこの自分の中の本来の部分と比較をして生きていくことなのであるが、人間は誰かのいった言葉を自分の深くまで浸透せず発した言葉はその効力をなくす。
わかりやすく例えるなら、よくすみませんでした一つに対してもこの人のすみませんは許せる。逆にあの人のすみませんは腹がたつというのは心奥底にある情景が伴っているか伴っていないのかが大きな違いである。
些細な因果まで見ていったようにこの因果を突き詰めていくことを今後ともしていかない限り、人類本来の目的である向上というものは全くもってなくなることであろう。
私はそのために今の自分としっかりと向き合って、正当なる努力と意図的苦労を持って生きていく。
最高の出会いと今の自分の体やここにいることに、
生かしていただいて有難う御座います