全てが今だけであります
自分自身でよかれと判断して実行した結果が他人に評価されなかった。
自分は善意でやったのに怒られたという経験をした人はいませんか?
それは善意をして褒められたいというものが心の奥底にある事がわかります。
他人からの見返りを望んでいます。御金を他人に貸す場合は、返してもらえ無い可能性もあることを、覚悟できる人だけを貸すべきだと世間はよく言います。
返してもらうことが必須前提ならば後でトラブルになるものです。
貸した本人も苦しむことになります。
ありがた、迷惑という話で避難を受けることもあるかもしれません。
私は自己満足でいいと思います。
「他人」にしたことが大事なのです。他人の評価の是非は別にして、空間に刻み残すことが大切です。
相手からの良き反応も期待しないことが大事です。
自分自身に関わって呉れたからです。
現在の社会は他人の子供を諭さず、無視する大人が多い、冷たい社会になりつつあるよう思います。
喧嘩していこうではありませんか?
騙されて笑われて生きようではないですか?
嫌われて生きようではないですか?
全て相手がいてできることじゃないですか?
そんな相手のやりとりが今回できることに感謝して楽しく生きて行きましょう。
生かして頂いて有難うございます
末法は目の前?輝かしい世界への入り口
末法思想(まっぽうしそう)とは、仏教の予言思想の一種であり、釈迦の立教
以来1,000年(500年とする説もある)の時代を正法(しょうぼう)、次の1,000年
を像法(ぞうぼう)、その後10,000年を末法の三時観で分けて考え、釈迦の教
えが及ばなくなった末法においては、仏法が正しく行なわれなくなるという。
中世以降の日本では末法思想を、この世の終わりとする終末論的なものであ
ると捉えることも多い。しかし末法思想はあくまでも仏法の衰退、つまり仏の教
えが時代を経て次第に通用しなくなる事のみを指しており、そこに世情不安や
天変地異は含まれない。したがって末法思想は「この世の終わり」を意味する
ものではない。 (フリー百科事典より引用)
釈尊の本当に数少ない予言の一つのようです。
現在は釈迦が示した末法の年代に入っています。
2000年間の宗教形態やすべての集団組織を形成する終わりを予言しているように感じます。
そしてそれが、もうすぐそこ年末から年明けに大きな集団組織の意向が行われるような感じがします。
一人ずつが、考え動く時代その中友であったり家族といった個人単位での本当の思考力で生き延びていく。
宗教というカテゴリーがなくなるかもしれませんが、善き教えは残って行きます。
瞑想は本来仏教のみでしたが、世界的認知がされているのはその大きな兆候の一つといえるでしょう。
目を明けた瞑想の時代に入って行きます。今目の前の出来事が世界に反映しやすい時代に入っていくのです。
宗教や会社でのボランティア活動をするのと、自分の意識でちょっとゴミ拾おうと意思でする場合では行為の結果が変わってくるものです。自分がしたいからするのです。
その人にとってのボランティア活動になってきます。強制や縛りがありません。
人類を縛り付けていた者からの解放
内在する本来の自分と共に生きる世紀の始まりです。
赴くままに氣ままに良心の欲することを成し
これがすべての宇宙の法則・愛の法則である。
この時代に肉体としていられることを感謝しています。
生かしていただいて 有難うございます☺︎
呼吸で若返る健康法
鬱の人、悩んでいる人、イライラしてる人、病気の人を観ますと呼吸が浅いことを感じます。
息をしていても、肺の奥、ましてや腹にまで酸素と氣が届かずに、首で呼吸が終わっている感じがします。
これでは慢性的な酸欠状態が続き、
体が弱まります。心も弱い者です。
人間の呼吸で病気も治せると思います。
緊急時に人工呼吸と心臓マッサージなのかそれは呼吸が自分を作り出しているからかもしれません。
呼吸への意識
お湯の飲料
昆布からの自然なミネラル塩分の摂取
食事と栄養への配慮、 などなど
それと、一番大事な事は・・・肉体的に
生かして頂いて ありがとう御座位ます